top of page

私たちの教会

 

■正教会とは?

 東方正教会とも呼ばれる。 11世紀の教会分離(正教会とローマカトリック教会)前に行われた7回の全地公会や地方公会で確認された信仰の定理や教会規則、使徒の時代からの伝統を正統に受け継いでいる。 正教会はまた、5世紀にほぼ確立された教会の祈祷の形と精神性が保たれた奉神礼(礼拝)を今に伝えている。その中心は聖体礼儀(Liturgy)と呼ばれ、ハリストスの体と血としてのパンとぶどう酒(聖体血)を領聖(Holy communion)する機密(Holy mysteries)である。これを通してハリストス・神と一体となり、神の民の集いとしての教会が形成されている。 現在、キリスト教が生まれた中近東、ギリシャ、東欧、ロシアなどを中心に世界中に多くの信者がいる。 日本には幕末期に函館開港とともにロシアから入ったが、1861年(文久元年)にロシア領事館付司祭として来日した亜使徒・大主教聖ニコライによって広く日本に布教された。東京神田のニコライ堂が本山で、教会の正式名称は「日本ハリストス正教会教団」。東京、京都、仙台に主教座を置き、3つの教区により構成されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■仙台正教会の沿革

 仙台に正教の伝道が始まったのは1869(明治2)年のことであった。1871(明治4)年11月にはニコライ師の命により、小野荘五郎、高屋仲、笹川定吉の三師が伝教者として函館から仙台に帰り本格的に伝道を開始した。
 市内4ヶ所に講義所を設けて、百数十名の求道者を集めていた。しかし、翌年1872(明治5)年5月2日には「邪教を伝えて国禁を犯すもの」として前記3名と共に伝道を応援するために來仙中の澤辺琢磨をはじめ14名が投獄され、同時に信徒約120名が、それぞれ禁足の刑親戚預りの刑を受けるという迫害を受けた。
 その後、自由な布教活動が行えることになり、1873(明治6)年には澤辺、笹川、高屋の三氏によって東一番丁、南町通りの仮会堂において最初の公祈祷が行われた。1877(明治10)年には「宗教科学講演会」が長期間にわたって開催され、「講習余誌」という雑誌も出版された。その頃から聖堂を建立するため、旧士族から現在の東二番丁角の一帯を買収し付近の土地も買い足し、仙台の中心に広大な土地を得ることができた。
 1892(明治25)年11月、聖ニコライ大主教により成聖式が行われ、ビザンチン様式の白亜の生神女福音聖堂竣工した。荘厳な聖障と5個の調和音を持つ聖鐘や建設資金の大半をギリシャ・アトスのパンテレイモン修道院から寄進されて完成したものである。聖堂の他、付属会館、司祭館、倉庫も建立。聖堂の屋根の先端には大小2ヶの球根を重ねたような葱状ドームの装飾があり、俗に「瓢(ふくべ)教会」とか、道路向かいの赤レンガのプロテスタント教会に対し「白教会」と呼ばれ市民に親しまれていた。

 大正、昭和の初期の教会はペテルブルグ帝室音楽学院に留学しリムスキーコルサコフに師事した金須嘉之進氏により聖歌隊は充実、1938(昭和13)年にはNHK[日曜礼拝]で聖体礼儀が実況放送された。
 1945(昭和20)年7月10日、仙台大空襲の焼夷弾直撃により敷地内の一切の建築物が焼失したが、幸いなことに金装大福音経や大十字架は防空壕で難をのがれた。終戦の荒廃にもかかわらず1945(昭和20)年12月には岩間神父の並々ならぬ努力で木造25坪の祈祷所兼教役者住宅を建設、その後着任した山田以利亜神父は直ちに教勢の振興と聖堂の復興を建議、募金活動をはじめ、戦後の混乱期を経て長期間に亘る募金活動と敷地問題解決の結果、1959(昭和34)年4月19日にイリネイ主教を迎え生神女福音聖堂成聖式を迎えた。

 1972(昭和47)年5月に4階建の信徒会館が完成し名実共に総合的な仙台教会になったが、平成になり聖堂が38年経過し老朽化が問題になったことから、酒井以明神父、加藤国枝神父のもとに、1998(平成10)年12月12日初代の聖堂の面影を保持する近代的な生神女福音聖堂が成聖された。
 2000(平成12)年1月15日、セラフィム辻永昇主教が仙台の主教として選立され、東北北海道にわたる東日本主教々区を統括している。仙台正教会はその主教をいただく主教座として教区の中心地として位置づけられ現在に至る。

亜使徒 日本の大主教 聖ニコライ

 ロシア領事館付付属聖堂 1860年建立 函館

 ニコライ堂 明治24年建立 東京

初代聖堂 明治25年建立

2代目聖堂 昭和34年建立

仙台の大主教 セラフィム 辻永 昇 座下

bottom of page